やるだけやってみようの記録

妊活日記→発達障害児育児日記

父が死んだので覚書(1)

 父が死んで、必要な手続きは概ね済んだ(と思う)ので、流れを記録しておきます。

 

生前

 肺がんが発見されたのがおおよそ5年前。転移や浸潤が無かった(と思った)のでステージ2ということらしかったです。左肺を下半分切除。

 その3年後、39℃の発熱。コロナが世界中いに蔓延していた冬だったのですが、まだこのあたりの田舎では市中感染は珍しかったのでコロナではないだろうということで、風邪の診断だったのですが、肺ガンを見ていてくれた病院に町医者が紹介状を書いてくれたので向かいました。

 診断は肺炎。本人は熱が高くても割と元気でケロッとしていたのですが、通常は1以下のCRPが入院中には最高14くらいに。

 主治医の見立てでは、おそらく切除した肺があった部分は空洞になっているのですがその空洞内にある空気が炎症を起こしているせいでCRPがあがり熱が出ているとのこと。そのような症例は少なく情報も乏しいそうです。対処法は抗生剤を点滴するのですが、空洞内に抗生剤が届かないので(空洞内は文字通り空洞なので血管が走っていないので薬が届かない)空洞内の感染症にはあまり効果がなく、なかなかCRPが下がりませんでした。

 それでもずっと抗生剤を点滴し、熱は36℃内に落ち着く日が出てきたので、入院して3ヶ月経つと退院しなければならないので一度退院。しかしその後、再度熱が上がり(でも37.5℃くらいだった気が……)CRPも上がったので再度入院、抗生剤点滴。このあたりになると父もいらだち始め、看護師にあたる始末。母が気に病んでしまっていました。

 抗生剤のおかげで熱も落ち着き、CRPはどうあがいても10を切るのがせいぜい、そこから大きな変化はなさそうなので、症状もおちつき、再度入院から3ヶ月経ちそうだったので、これ以上この病院でできることはない、と退院することになりました。

 肺ガンを治療した病院は県内でも大きい病院で、通うのに車で1時間半くらいかかる場所です。というかそもそも大がかりな外科的処置はもう車で1時間くらいの場所の病院しかできないのですが(住んでいるあたりが田舎だから……)もう外科的処置は必要なく内科的処置のみとなるので、住居のある市内にある病院に転院することに。といっても入院しても処置のしようがないので、自宅にかえり、定期的に転院先にかかることになりました。

 転院先には2週に1度かかり、CRPは落ち着くと6~8くらい。熱も36台の平熱で、本人も痩せて体力は落ちていたものの動けてはいたので、時々散歩に出たりしていました。

 ただ父は便秘に悩んでいて、このころから食事もろくに取れていないのに排便したいと強迫観念にとりつかれていて、母がそのせいで参っていました。便秘で2日便が出ないだけで母に「ころしてくれ」って言ったそうで母が流石に怒っていました。最後に入院する時も母は「お父さん、うんちがでないって怒ったらどうしよう」って言ってましたけどあのねおかあさん、もうそういうレベルじゃなかったんだよ……何度言っても「おとうさん便秘が便秘が」って母ももうなんかとりつかれたように悩んでたな……。

 今年の冬はなんとか越したものの、3月終わり位に熱が出だして、母が診察予約日前に病院に連絡、来ていいと言ってくれたので病院へ向かったらCRPが90で、即入院。

 肺炎をおこしていたので抗生剤を点滴したが功を奏さず、ステロイドに切り替えたら肺炎は治まったものの本人が気力を取り戻さない。ステロイドは本来体内に入ったら気力が回復するはずなのに本人の元気がなく、せん妄も出てきたので、もう長くはないと主治医に言われました。

 肺炎だし痰の吸引などの医療的処置も必要になってくるので在宅は厳しいとのことで、再度転院することに。介護系か医療系か施設を選べと言われたのですが、介護系はひと月15万ほど、医療系は7万ほどかかると言われました。違いは、現在施されている治療によるようで、父は肺炎を起こして酸素の流量が多かったので医療系の施設に転院できるとのことで、隣の市でしたが医療系の施設に転院しました。ちなみになぜ15万と7万の違いがあるかというと、15万のほうはすべて何から何までやってくれるから手間賃のようで、7万の施設の方は洗濯などは家族が持ち帰ってやるとのことでした。父は後期高齢者だったので限度額認定が自動的にきいて、医療行為の請求は3万いかなかったです。でも食事代だの個室代だので結構かかったけど……。

 入院期間は、市内の病院に3週間、「もう長くない」と言われて転院した医療施設に1週間でした。ちなみに医療施設への店員は本院をストレッチャーに乗せて母が同乗して行ったそうです。

 医療施設に転院した翌日に会いに行ったのですが、ヨーグルトを食べてまだ会話できてたんですよね。その1週間後に亡くなったのですが。最後に会話したのは、私の子のことです。私の顔を見て、孫に会いたいって言ったんですよね。娘より孫かよ父……。

 

 続きます。